ごあいさつ  

【写真】 昭和15年頃 住吉大社で 大阪奈良漬製造商組合員
株式会社 飛鳥
熊本 武史
私は昭和7年(1932年)に大阪市南区末吉橋通1丁目(今の中央区南船場1丁目)で生まれました。 生家は奈良漬製造問屋でその頃の当主は祖父の二代目専治氏で、明治10年頃に初代の専治氏が耳成山の麓木原村(現在の橿原市木原町)で造った味醂・焼酎を売る店として初めて大阪市南区高津一番町に店を構え、そこで明治27年(1894年)に奈良漬の製造を初め大正2年(12年(1913年)に現在の中央区南船場1丁目に奈良漬の製造部門を移し、そこが本店になっていました。
私が生まれた頃は奈良漬の最盛期で大阪市内に奈良漬の専業店が10軒余りありその中でも数少ない製造卸の店でしたので、当時奈良漬の生産では日本で一番多い店と言われていました。
また、祖父は初代の大阪奈良漬製造商組合の組合長として業界のお世話をしていました。
奈良漬の歴史
奈良漬の歴史は大変古いということをご存知でしょうか。 千年程前、宮中の慣例のために書かれた延喜式目に糠漬けの名前が記されておりました。
しかし最近、平城京より発見された木簡から、すでに奈良時代(千二百年前)からあったことが判明。それ以前、日本で酒が醸られた同じころから存在したのではないかという説もあります。
その後、鎌倉・室町時代に入り日本では酒の醸造が急激に増加しました。
「粕漬」の名称が「奈良漬」となったのは、南部(奈良)の酒がとりわけ美味で、その粕を使った漬物の味がよかったからかとも。
いずれにしても明治時代に入るまで、奈良漬そのものは存在しましたが、商品としてではなく、社寺、あるいは料理屋、茶店等の自家製として作られていたそうです。
大阪では、茶店であった六万堂(村上)が、大阪冬の陣に徳川家康へ献上した、べっ甲色の天王寺蕪の粕漬けがその名を残し、昭和初期まで六万堂の奈良漬として有名でした。
また、浪速の豪商、淀屋辰五郎が閥所(財産没収)の折、粕瓶に瓜を二つ割りにして漬けて食べていたという、贅沢な話が残されています。 その贅沢ぶりを世に「贅六」と言ったそうです。
明治二十年頃、市内を縦横に通っていた堀割を利用して伏見・天満周辺の造り酒屋、西宮、灘の酒粕が入手しやすくなりました。また、大阪の此花新田の白瓜、気馬の閘門の気馬胡瓜、守口渡しの守口大根、加賀神田の丸茄子、天王寺の蕪などと良質の原材料に恵まれた地域の、酒に関わる店が造り始めたのが奈良漬なのです。