大阪の奈良漬の歴史

板屋橋あたり
【写真】大正3年 板屋橋あたりより
長堀川を写してある。中央に見える洋館は住友の本宅(住友の発祥の地)
左に見える橋は安綿橋。その先に東横堀川が見える。
このころトラックはなく重い物は船で運んだ

 明治二十年頃、大阪では人口が増え奈良漬が売れるようになり、また天王寺の六万堂(村上)、江戸堀の生駒(灘の樽回船の船宿)、新町の逸見・平野町の田中・高津の熊本・四ツ橋の三谷等の奈良漬の店を作り始めました。
その後、明治四十年頃、鰻谷の植田・御影の高嶋等ができ、大正より、昭和、天満の菊一・森小路清水等の奈良漬専門店が太平洋戦争までそれぞれの味で商いをしておりました。(六万堂は昭和九年廃業)
しかし、太平洋戦争の始まった昭和十六年頃六年頃より、原料の入手が難しく、奈良漬の暗い開店休業の時代が続きました。
昭和二十年三月の大阪大空襲により、先に述べた奈良漬店はいづれも大阪の中心部にあったために全滅、終戦をむかえました。昭和二十三年頃、奈良漬の原料、酒粕・砂糖(キューバ糖)が入手できるようになり、戦後の奈良漬は復活しかけました。
アメリカ製トラック
【写真】昭和13年頃と思われるこのトラックは
アメリカ製のダイアモンドという自動車 。
当時、借家(今のマンション)1件が買える価格。
しかし、戦前の奈良漬店で復活できたのは、熊本・植田・生駒・清水ぐらいで逆に戦中戦後、漬物で利益を得た振興の店が奈良漬業界に参入し、戦後の第一次奈良漬ブームが、昭和四十年頃には大阪の奈良漬店は三十五店くらいありました。
そのため、過当競争になり、統廃合が続き平成三年の現在では大阪の奈良漬業者は、飯田フーズ・西出食品・熊本荒川食品(飛鳥)・阪急食品工業・高野食品・田村健一商店・松岡食品・藤原商店・辻漬物等になっています。
◎現在、毛馬胡瓜、天王寺蕪の復活に奔走中!